歯科経営者に聴く ~第一線で活躍する院長から学ぶ~
医療法人社団 郁栄会 寒竹 郁夫 理事長
高層ビルが立ち並び「近未来」的な雰囲気を持つ幕張新都心。その中のオフィスビルの一つに訪問歯科診療サポート業務や歯科技工業務で成長著しい医療法人社団 郁栄会の本社がある。取材の為に通された応接室は17Fにあり、非常に見晴らしの良い部屋だ。
数年前からアウトドアに目覚め、登山やマウンテンバイク、更には四輪駆動車のレースまでアクティブに楽しむ寒竹理事長。
社長の学生時代から今後の経営戦略まで、幅広いお話を伺った。
医療法人社団 郁栄会 寒竹 郁夫 理事長
プロフィール
- 1957年生まれで東京都墨田区の出身。
- 1982年日本大学松戸歯学部を卒業後、日本大学大学院松戸歯科研究科でむし歯のワクチンの研究を行う。
- 1987年寒竹歯科医院を開業。
- 1989年株式会社アイ・ケーコーポレーション(現 デンタルサポート株式会社)設立。
開業まで
歯科医師を目指した経緯を教えていただけますか?
父が歯科の開業医で私は長男でした。長男は歯科医になって跡を継ぎ、次男は医師に、というのが子どもの頃からの決まり事のように暗黙の了解となっていました。
私の生まれは東京都墨田区の吾妻橋(あづまばし)という所なのですが、10歳頃から千葉県船橋市の北習志野に移り、大学の4年生までそこに住んでいました。大学も日本大学の松戸歯学部ですから、地元と言って良いと思います。
学生時代に印象に残ったエピソードをお聞かせいただけますか?
高校生の時から始めた硬式野球を大学でも続け、在学中はキャプテンに、卒業後、ヘッドコーチを経て監督にまでなりました。あくまで歯学部内の野球部ですから同好会みたいなものですけど。
他には、技工に燃えましたよ。歯科医師になるには技工を知らないといけない、という事で。実際の患者さんを削って型とって合わせて。全部自分で作るんですよ。それで症例の実技実績が1個認められます。学年で症例数1位でした。160人以上いるんですけど。
夜中の2時3時までやるんですよ。空気も悪いし、体壊して入院してしまいました。開業してからも3年目に入院しましたけど。制御が利かなくて常に突っ走ってしまうんですね。負けず嫌いというか。
歯科は臨床よりも技工が大変なんですよ。模型を作ったり、咬合器というものに付けて角度を見たり、金属を鋳造する為の型を作ったりします。その型を作るのが難しいのです。蝋で作って金属を流し込むというのが。プロがやれば何の事はないんですけど学生にとっては。
でも今の学生さんは患者さんの口の中をいじらないですよ。昔と違って。
大学を卒業されて、大学院に進まれたのですね?
その頃、開業する気は全く無かったんですよ。大学に残って研究して、その後アメリカにでも留学し、アカデミックな事をやりたいと思っていましたね。
実際にはむし歯のワクチンの研究をしたんですよ。主任教授に「フロリダ大学に留学しないか?」って言われまして、ほとんど行く気になってたのですが、夢見が悪くて。何か寝起きが悪いんですよ。「やる事違うんじゃないの?」というメッセージが聞こえてくるような(笑)。
それで180度方向転換して開業したのが昭和62年です。大学院は4年間ですから学生を10年やって1年間助手になったんですよ。育ててくれた大学へお礼をしたいという気持ちからですね。
後から聞くと私は学生に何でもやらせる事で有名だったらしいですよ。とにかくもう「やっとけ」と。そういうインストラクターって少ないんですよ。学生がミスをすれば全部自分の責任になりますから。それでも私は何でもやらせていました。とにかく燃えていましたね。
その当時は大学の3本柱である教育にも臨床にも研究にも燃えていました。
そこから一気に開業する事になってしまったんですけどね。
ワクチンの研究をされていたとの事ですが、一般歯科の臨床経験の方は?
大学とアルバイトでの経験しかないです。だから特に矯正、インプラント、難しい歯科の手術といった事はほとんど経験なく、いきなり開業してしまいましたね。難しいケースはほとんどないから、という訳で治療のスキルという意味では最低限で開業しました。29歳の時です。
「開業しよう」というキッカケは何だったのですか?
卒業後、大学に5年も残っていると色々マイナス面も見えてきて。学生の時は見えなかったんですが。だったら開業して別の世界に飛び出して行った方がいいと思いましたね。
その当時は株式会社作るなんて全然考えてなかったですけれども。とにかく外の世界に飛び出して、自分の可能性を試してみたいと思いました。
場所はどちらだったのですか?
千葉市美浜区の稲毛海岸です。
その頃から歯科医院は飽和状態でしたから、大体1日の患者さんの数が15人ぐらいでしたね。週休2日(水・日)取って診療時間は19時まで、と診療時間が短めだった事もありますが。15人位で収支トントンなんですよ。だから開業した意味が全然ありませんでした。開業したのは5月ですが10月から夜間診療を始めたのです。平日の診療を21時までに延ばしました。
診療では小児歯科に力をいれました。診療の度に嘔吐する子、駆けずり回る子、おしっこを漏らす子など、他では診てくれないような子も診ていました。お母さんが子どもを兄弟で連れてくる事が多かったので、女性スタッフに下の子をおんぶさせ、上の子をお母さんが羽交い絞めにして、お姉ちゃんを診る、というような事もしました。
患者さんのことを思えばすべて当然の事なのですが、当時の歯科では意識がそこまでいたらなかった医院が多かったのでしょうね。自分が開業した歯科医院では仕切りも何も無い状態でユニット3台並べて診療してましたから、患者さんからも医院の中が見渡せるんです。すると他の子のお母さんが泣いてるんですよ。感動して。「そんな事までやってくれる歯医者さんはいない」って。
それに、子どもの診療を丁寧にやると親が見ていて、子どもが痛がらないとその親御さんも通院してくれるようになりました。
それで1年経って1日40~50人。今でも覚えてるのが、全くの新患が毎月120人来た事があります。それで急に忙しくなりました。やっぱり患者さんを感動させるというか、心のつながりを持つというのが重要なんだと、あらためて思いました。
会社設立
それで現在のデンタルサポートに繋がる「(株)アイ・ケー・コーポレーション」を平成元年に立ち上げる訳ですね。設立のきっかけは?医療法ではできないことにチャレンジしたくて立ち上げたMS法人です。設立当初は技工だけをやっていました。
但し実際の設立は平成10年ですね。本格的な株式会社としてデンタルサポートにしたのは。
そのデンタルサポートにした時には、訪問歯科をメインに?
逆です。平成9年に医療法人で訪問歯科を始めたんですよ。3年位前からニーズがある事は分かってましたから。但しハイリスクだったんですよ。我々にとっても患者さんにとっても。だから行政を絡めてやろうと思ったのですが、スピードや考え方が合わない部分があり、自分達で訪問診療専門チームを作って始める事にしました。歯科医師、歯科衛生士、ドライバー、後その頃は歯科助手も加え四人一組で。それが県下初だって事で朝日新聞に取り上げられて、利用が一気に広がりました。その頃から上場できないかと自分でも意識し始め、本格的な株式会社であるデンタルサポート設立に繋がったんですよ。外部の資本も入れて。だから本格的な株式会社になったのは、平成10年の12月です。そこから紆余曲折を経ながら今に至る訳です。
先程からのお話だと最初から順調だったのですか?
いや、もう良かったのは最初だけで実に色々ありました。大手の介護会社に買収されそうになった事もあれば、役員が引き抜かれたり、歯科医師がまとまって辞めてしまったりしたんですよ。歯科医師がいなくなったら診療できないですから、それは痛いですよ。経営的にはキャッシュ(現金)不足に苦しんだ時期もありました。
そんな感じでデンタルサポートを作ってから3年間、平成13年の秋位までスッタモンダが続きました。その頃はもう、今思い出しても大変でしたね。だから今でも色々な事が起きますけど、多少の事は平気ですよ。
まずお金が無いって事の辛さというか恐怖感。そして歯科医師がボロボロ辞める事。そして組織が信頼関係で繋がってないと脆いという事。その3年間で学びました。いい勉強になりましたね。ストレスで体調を崩して仕事にならず、会社がほとんど機能しなくなった時期もありました。それをどういう風に切り抜けたのか自分でも分からないですよね。
自分自身診療に出たって事はありますね。週に3日位現場に出たんですよ。そうしている内に現場が段々収まってきたんですよ。ま、それもありますけど、不思議ですよね。神風吹いたって言うか。銀行も支援してくれたり。
平成13年の終わり頃から平成16年位まで安定期に入りましたね。業績は少し伸びてましたがそれほど拡大路線でもなく。
平成16年にまた、上場しようと言う事で動き出しました。結果的には延期になりましたが。
今は色々積極的にやろうと思っています。保険点数の改正が今年の4月にありましたが、その影響もどうにか払拭されましたし。この後3年半位は大きな点数改正ないですから。今度は医科の方の在宅分野に出て行きたいし、エリアも九州に出す事を考えています。技工所もいい所があれば買収も考えたいですね。
事業のポイントと難しさ
今やってらっしゃる事業の一番のポイントは?
スタッフの確保に尽きますね。市場はあるし、患者さんからの需要も確実にあるのだから、患者さんに対しては「丁寧にしっかりやる」に尽きる。しっかりやる為のスタッフ、特に資格者である衛生士と歯科医師。特有の価値観があるんで、給料も必要だが給料だけではない。医科をやっても医師や看護師の確保が難しいと思うんですけど。その辺をどうやって確保していくか。条件ももちろんありますけど、条件だけではない。遣り甲斐だとか。そういう価値観がちょっと違うんで。
最終的にはウチのグループのブランド化が重要です。ウチにいる事自体が業界でステータスになるようなブランド戦略だと思いますね。本の出版や国の研究機関と組んでの基礎研究などもやっています。そういうベーシックな部分の差別化から始めて、上場できるなら上場して。業界で今までやっていない分野ばかりですから。後は将来のビジョンですかね。
そのビジョンを聞かせていただけますか?
医科も歯科も医療機関(医療法人)をグループ化していきたいですね。グループ傘下の医療法人を増やしていきたい。
その中で、株式会社では健康や予防、介護といった分野で。更にグループ医療法人の経営支援、資金調達支援、歯科で言えば技工、材料、レセプトと言った周辺部も会社の方でやっていきます。
医療法人と株式会社を合わせ、在宅医療を切り口に予防からターミナルケアまで、介護も含めて医科と歯科トータルで手がけていきたい、と考えています。
この事業の難しさは?
もう専門職のスタッフ確保と定着率の安定ですよ。専門職の本質は専門職の者にしか理解できない。組織は人で成り立っていますから、気持ちをまとめられることが大切です。組織を分けているのはそのためです。一つの形、ピラミッドでは絶対に収まりつかないですから。
組織を分けて、しかも「グループ」という意識を持たせていかないと。その上で、一つの方向性を持たせないといけません。
メッセージ
若い歯科医師にメッセージをお願いします。
当グループの理念の為に力を貸してください、という事ですね。ウチに来たら特別いい研修システムがあるとか、特別条件で迎え入れますよ、って事ではなく、「やりがいを提供できる」組織だと思っています。予防からターミナルケア、介護までのトータルケアを目指しているグループなので、力を貸してください、と。
そしてものすごく職種の幅があります。研究だけやりたいって入ってきた歯科医師もいますし、マウスピースを全国に拡げていきたいと入ってくる人もいます。健診程度だったらやってみたいって入ってきた歯科医師もいます。衛生士ではもっとセミナーをやるだとか。口腔ケアをやるだとか、外来をやるだとか、普通の開業医よりも歯科医師も衛生士も職種の選択肢がある所ですね。
プライベート
プライベートでは、学生時代に腕を鳴らした野球をなさるんですか?
もう野球はしませんね。ソフトボールも。
今は山ですね。マウンテンバイク(自転車)ですとか、普通に山に行ったり。日本全国、大体登りました。4年ほど前にアウトドアに目覚めて、役員も無理やり山に連れて行くんですけど。自転車を買わせて。キャンプに行ったり、たまに釣りをやったり。4駆(自動車)のオフロードレースにも出ています。
先生独自の健康法は?
食事と運動と早起きですかね。今日も3時半起きですよ。経営者が集まって勉強をする会に入会しているんですが、その早朝のセミナーで今日は講師をしました。
後は自然と触れて運動やるって事ですね。酒はほどほどにして。