歯科経営者に聴く ~第一線で活躍する院長から学ぶ~
上田歯科医院 上田雄平 院長
上田歯科医院は、開発著しい東京臨海部にある葛西臨海公園にほど近い住宅地の中の歯科医院です。宅地開発が進んでファミリー層が流入、子供たちが元気に公園で遊ぶという活気のある環境の中で、上田歯科医院は子供からお年寄りまで幅広い患者さんに支持されています。
上田院長は鶴見大学を卒業後、某企業附属の診療所で臨床を積み、経験を重ねて、満を持して上田歯科医院を開業。患者さんだけでなく、優秀なスタッフにも恵まれ、ここから旅立っていった勤務医の先生の多くが開業に成功しているそうです。その秘訣を上田院長先生にお伺いしました。
上田歯科医院 上田雄平 院長
プロフィール
- 1958年広島県生まれ
- 1983年鶴見大学卒業後、鶴見大学歯学部附属病院口腔外科に入局
- 1986年から某企業附属歯科診療所に勤務
- 1993年上田歯科医院を開業、現在に至る
開業に至るまで
歯科医師になろうと考えたのはいつ頃でしょうか?
「私は、広島県の呉で生まれたのですが、実家は室内装飾の会社を経営しており、小学校高学年になったところで家業の都合で東京に引っ越してきました。
両親の親戚筋にはもともと医師・歯科医師が多かったのですが、白紙状態といいますか、どちらかといえば実家の会社をなんとなく継ぐのが自然なのかなと思っていました。ですから学校から帰ってくるといつも会社の中で遊んでいました。父の信念のもとに集まった社員の人達が目標に向かって働いている姿を見て、遣り甲斐のある仕事だと思いましたし、またそんな父の働いている後ろ姿を見て、かっこいいとか尊敬できると感じました。
その父から高校生になった頃から歯科医という仕事もあるぞと聞かされました。社会的に認められ、魅力があると伝えたかったのだと思うのですが、それを感じとって歯科医師になろうと考えました」
学生時代は勉強一筋でしたか?
ちゃんと勉強はしましたが、同時に入学してすぐ合気道部に入りました。以前から合気道を習ってはいたのですが、本当は極真空手をやりたかったんです。でも極真だとフルコンタクトじゃないですか、ですから指のことを考えて諦めました。部自体は立ち上げからまだ2年目だったので当然経験者は私だけ。それでも一般大学リーグにエントリーして、私の現役引退後には入賞できるところにまでなりました」
卒後の進路
卒後はどうされたのでしょうか?
「大学を卒業したあと大学に残って3年間修行し、その後、某企業の診療所に勤務することになりました。縁あっての入職だったのですが、まだ開発途上の診療所であったので、これはなんとかしなければと一念発起しました。 会社の組織図をたどって、各部署にかけあったりして、社員に喜んでいただけるような診療所をつくっていきたいと話を進めていきました。そのようなことをしていると、患者さんが次第に増えていき、あまり多くない患者数が640件にまでなって評価の高い診療所になりました。この際に、熱意とか信念、行動力が重要だと気づきました」
上田ファンクラブもあったそうですね?
患者さんのほとんどが社員だったので、その人たちがどんなふうに働いているのか知りたくて職場にもでました。研究職から事務系、営業系など多くの社員と接して、いろんな話しをするうちに仲良くなって、いつの間にかにファンクラブがつくられたそうです」
そんな良い環境の中で開業を意識されたのはどうしてですか?
「一時期、このままずっとそこで働こうとも思っていたんですが、なんとなく組織の中の行き詰まりなどを感じて、それならば自分の城でやってみたい、と思うようになり、企業のバックがあるのではなく、自分の力だけでどれだけの患者さんが集まるのか、試してみたくなって開業を考えました。
開業するならやはり地元に戻るのが自然で、親兄弟の近くで暮らしたいと思っていましたので、どうせやるなら第二の故郷である江戸川区でやろうと、1992年頃からどこかいいところはないものかと探し始めました。
そんな時に実家の近くの更地に立て看板が立っていて、近々マンションが建設されると書かれていたんです。最初はまったく気にも留めなかったんですが、どうやらマンションの1階部分がテナントになるとわかって、それならここでやったらどうかと考えました」
開業~現在
ご自身でかなり調査されたようですね?
「結局、企業附属の診療所を1993年の3月に退職しました。前年より本格的に活動を開始しました。やるからには自分でなんでもやってやろうと、まず始めたのが区役所に行って人口動態調査票を見ることでした。該当地域の人口・男女比・年齢構成・流入人口などを調べました。次にしたのは、予定地の前の通りをどんな人たちが実際行き来しているのかを見ることでした。車の中からお年寄りから子供、お父さんお母さんたちを朝から夜まで観察して、どんな人たちがどんな生活をしているのかを調べました。
そして、これならいけると判断して、各種の交渉ごとに入りました。銀行に日参して融資をとりつけました、開業資金は全て借金です。それから不動産屋にいって賃貸契約の交渉、それをクリアしたら今度は内装工事会社にあたるなど、交渉ごとは全て自分でやりました。専門のコンサルタント会社に頼めばもっと簡単なのでしょうが、あくまでも自分でやるという熱意が大事なんだと思い、なんとかやりとげて開業することができました」
かなり盛況だったと聞いておりますが?
開業初日の患者数は20人くらいでしたが、やるぞという熱意と事前の下調べもあってどんどん増えて、数年後には月660件にまで増えました。『組織の中の診療所』だった企業の時には最高で月640件でしたから、今度は『地域の中の診療所』としてそれを越えようと頑張った結果だと思います。これで件数へのこだわりは自分の中でひと段落つきました。
一方、やるからには最上の診療を提供しようと、皆さんご存知の藤本研修も徹底的にやりました。自分の中の自分に負けるのが嫌なので、自分の能力とか欲しているものを分析して、目指すところまで自分を持っていこうと今も頑張ってますし、地元の南葛西の人たちに『上田歯科医院があって良かった』と思っていただくのが医院のコンセプトでもあります」
分院展開もお考えですか?
「いえ、現状それは考えていません。人によっては分院を広げていこうと考えられるようですが、私としては質の向上の方が重要だと思うので、分院をつくるよりも、この上田歯科医院をより高いレベルに持っていくつもりですし、そうしなければいけないと思っています」
スタッフ育成
自己啓発にも力を入れているそうですが?
経営の基本は人・物・金、と言われておりますが、人を大事にすること、自分がどう社会に貢献したいか、どうありたいかと思う考えが大事だと思います。当然学問や技術というのは歯科医師として習得しておかなければいけませんけどね。
患者さんの病んだ心を救い、喜んでいただく、そんな歯科医師になりたいですね。患者さんとの出会いは一期一会ですからね」
スタッフの育成についてはいかがですか?
「開業した頃はまだ自分自身も成長途上でよくわかっていなかったので、スタッフ育成は試行錯誤でした。どちらかというと厳しさが前面に出たような接し方をしていました。
しかしそんな遣り方では人は育たないということがわかってきましたので、その人の良さを引き出そうというふうに変わっていきました。朝は8時には医院に来ていますので、始業前に手取り足取り教えたり、仕事の後に残って相談を受けたりもしています。初歩的なことはなかなか私には聞きづらいところもあるようなので、気を利かせて早めに医院を出るようにして、先輩スタッフが教えています。
以前ここで働いていた医師が開業するというので相談にものりました。無事開業することができて、現在盛業中のようです。昼ごはんもたべられないと嬉しい悲鳴をあげていました」
衛生士さんの育成についてはいかがですか?
「実は私は衛生士さんのいない診療はやったことがないんですよ。ですから、いて当然、いてくれないととっても困るんです。数をこなすような流れ作業的なことをしてもらうことはありません。やっぱり働いて楽しくないと、当然患者さんも楽しくないわけなので、患者さんのために全力投球できるよう、環境も整えますし、その人のいい所、長所をどんどんのばせるよう手助けしていきます」
スタッフの衛生士、宇内さんにもお話を伺いました。
「上田歯科医院は、院長が仕事を任せてくれる、衛生士としてやりがいのある職場です。忙しくてもスタッフの仲がいいので、阿吽の呼吸ですっと手助けしてくれるという感じかな。 場所柄、子供の患者さんが来院されることが多いので、一緒にキッズルームで遊んでコミュニケーションをはかっています。フッ素・シーラント・TBIが多いですね。 院長先生は、・・・魅力的なドクターで、おススメですよ、ムフフ
開業に向けてのアドバイス
「歯科医院がとても増えているということは、これからははっきりと差が出る時代になってくるということだと思います。ただ単なる技術で勝負が決まるというよりも、医師の人間性はもとより、人材の育成と臨床技術などの総合力で勝ち負けがわかれるのではないでしょうか。ですからまずは自己研鑽が第一になりますね、自分を磨いて磨いて磨きぬくことです」
上田院長は生まれ変わっても歯科医師になりたいですか?
「それはもちろん、こんな面白くて遣り甲斐のある仕事はありませんよ。また南葛西の上田歯科医院の院長になりたいと思います」